まつだいらさだのぶ松平定信
白河藩松平候・松平越中守
宝暦八年、田安宗武の次男に生まれ、マンガにあるような事情で白河藩松平家の養子になった。松平といってもいろいろあるが、白河のは家康の母が 久松家に再嫁して生んだ子の末裔(久松松平)の一つである。天明三年に藩主となってマンガにあるような農本主義で飢饉を乗り切り、天明七年老中に就任。
いわゆる寛政の改革については今日さまざまな再検討がなされている。頼春水のすすめで実施した「異学の禁」は儒者の就職口を増やすのが本意で、看板だけ朱子学なら 講義内容は実質なんでもありだった。厳しい出版統制(本の最後に奥付を入れる規則が定着し現代に至る)が結果的に出版者の権利を確立し、江戸の出版点数は寛政期に最多 を記録した。
もっとも不可解なのは対外政策である。林子平を罰した一方でその友人である森島中良などを召抱え、白河城に洋学研究室を設けている。またラクスマン 来航時の資料によると、ロシアに対し日米和親条約程度の消極開国までは選択肢に入れていたようだ。蘭学自体を弾圧したのではなく、それがきっかけで処士横議が盛ん になり体制を脅かされるのを恐れていたらしい。しかし真意がはっきりする前に尊号一件で一橋を怒らせ老中を首になってしまった。
白河に帰った定信は再び藩政改革に専念した。江戸での挫折が薬になったのか、産業振興や庶民教育にも目を向けるようになっていた。魚介養殖と水軍訓練のため南湖を整備 し、のちに公園として一般解放した。南湖公園は現在、国の史跡・名勝に指定されている。
文化九年に隠居し江戸に移住した。頼まれもしないのに全日本文化財カタログ「集古十種」を編纂した(谷文晃が貢献)他「宇下人言」など百七十にも及ぶ著作を 残している。
転封して桑名藩邸となった江戸屋敷が文政十二年に火事で焼け、息子の松代藩邸まで焼けた。江戸っ子たちは「(越中)フンドシが焼けた! (真田)ヒモも焼けた!」と喜んだ。ホームレスになった定信は寄宿先の松山藩邸で死んだ。
桑名松平はその後「一会桑政権」の一翼として幕末動乱に巻き込まれていく。
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A・B・藤田覚「松平定信」(1993.中公新書)・中村真一郎「江戸漢詩」(1998.岩波同時代ライブラリー)・中野三敏「和本のすすめ」(2011.岩波新書)・松浦静山「甲子夜話続篇2」(1979.平凡社東洋文庫)
徳川吉宗/田安宗武/真田幸貫/田沼意次/ 一橋治斉/長谷川平蔵/林子平/大黒屋光太夫/ 亀井駿河守/亜欧堂田善/石井庄助/森島中良/ 谷文晃/平岡美濃守

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