たにぶんちょう谷文晁
宝暦十三年生まれ、親の代から田安家家臣。狩野派から始まってあらゆる流派を吸収、東洋画の中でも写実的な南蘋派に傾倒し洋風画にも興味を示した。
古書にいわく、あるとき松平定信が「おまえ有名になりたいか」と聞いた。「はいなりたいです」「じゃあ千本の白扇にサイン入りで富士山の絵を描いとけ」定信は 正月にその扇を江戸市中でばらまかせた。「こいつは春から縁起がいいぜ」たちまち谷文晁の名は天下に広まったのである。
寛政期の文晁は緻密な構成力を究め、写実画を軍事的に必要としていた松平定信に重用される。寛政五年、定信が伊豆沿岸をぶらぶら見回りに行った時同行して描いたのが、 代表作「公余探勝図」。
また全日本文化財カタログ「尚古十種」も大きな仕事だ。この肖像画が源頼朝でこれが足利尊氏だとかいう通説は、この本で決まったのである。
ただの御用絵師になり下ったわけではなく亀田鵬斎などとも大親友である。弟子には田能村竹田・亜欧堂田善・渡辺崋山など。
晩年は画風が一変して ラフになったがそれが良いという人もいる。天保十一年没。
十三203-204,209,214,227十四171
A・山本博文ほか「こんなに変わった歴史教科書」(2011.新潮文庫)・渥美国泰「写山楼谷文晁のすべて」(2002.里文出版)・村松梢風「本朝画人傳巻二」 (1985.中央公論社)
渡辺崋山/金子金陵/亀田鵬斎/松平定信/亜欧堂田善

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