あおうどうでんぜん永田善吉
陸奥・須賀川の商人の次男に生まれる。中年になるまで実家で兄の手伝いをしていたが、三十八で一念発起して伊勢へ絵の勉強に行った。 老中を首になって白河に帰国していた定信が領地を視察中、たまたま善吉の描いた屏風絵を見て感心し谷文晁に紹介してくれた。本名を縮めて画号としプロ画家になったのだ。
寛政十年定信の命により江戸に出て洋画の研究を始める。一時江漢にも弟子入りしたが破門された(むしろこのことで定信と江漢が険悪になったのではないか) という説がある。田善は白河藩の蘭学者たちの助けも借りて独自の銅版画を完成させた。高橋景保が出版した「日本辺海略図」「新訂万国全図」も田善の彫刻である。
江戸っ子江漢が淡白な風景画を得意としたのに対し、東北人の田善は人物・風俗の執拗な書き込みが特徴。しかし洋画法で日本人の顔を描くには当然試行錯誤があり ブキミとか言われてしまうのだった。
文政五年没。定信の御用絵師とはいえ根っ子は庶民的で、北斎など多くの浮世絵師にリスペクトされている。なお、 子孫のひとりが円谷英二である。
十二95
成瀬不二男「江戸時代洋風画史」(2002.中央公論美術出版)・竹内博編「定本円谷英二随筆評論集成」(2010.ワイズ出版)
司馬江漢/谷文晁/松平定信/高橋景保

目次へ戻る