ひらおかみののかみ平岡頼長
松平定信が徳川家斉に手討にされかけた時ナイスフォローしてくれた人。
先祖の平岡頼勝はもともと小早川家の家臣で、 秀秋にツッコミいれてた二人のうちどちらかのはず。実は彼こそが家康と通じ金吾を寝返らせた張本人らしい。そのあとすぐ小早川が断絶したのは御存知の通りだが、 頼勝はほとぼりがさめたころいつの間にやら徳川に再就職してたのだ。
頼長は六代後の子孫で、享保二十年生まれ。徳川家治の小姓から始まって家斉付きに転じ、 小姓組頭取・御用取次・御側衆などを歴任した。これらは将軍に直接進言できる重職であり、定信以外にも取り成しを頼むものはヒッキリナシであったろう。 当時の武鑑を読むと、「登城前御逢日三日・十三日・十八日・二十五日」とか面会できる日が指定されているのだった。
石高は二千石から最終的に五千石まで加増。定信の寛政改革が水野忠邦の天保改革より長続きしたのは、こういう隠れた実力者がたくさん味方になって支えてくれていたからだろうが、 その定信もクビになって頼長は嘆息した。文化十三年に八十二歳で没。
※徳川慶喜のブレーンだった平岡円四郎はたぶん武田遺臣の家柄(自身は養子)で、 同祖としても遥か昔のことである。
十一237-238
C・H・「文化武鑑」(1981-82.柏書房)・山本博文「武士の評判記」(2011.新人物往来社)
松平定信/徳川家斉/小早川秀秋/徳川家康

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