はせがわへいぞう長谷川宣以
鬼平
長谷川家の先祖は今川氏の家来で、遠州小川城主。ウチのご近所さんなので以下の記述が好意的になるのは致し方ない。
延享二年ころ妾の子に生まれ、若いとき「本所の銕」と呼ばれたのは本当の話。安永二年家督を継ぐが、長い間書院番あたりでくすぶっていた。四十代になって天明打ちこわし騒動の鎮圧で認められ、天明七年火附盗賊改加役。それから寛政七年没するまで、「鬼平犯科帳」はわずか八年間の話である。
鬼平とは池波正太郎の造語で、当時は「今の大岡様」「本所の平蔵様」と呼ばれていた。鬼のように悪を斬りまくったからではなく、誤認逮捕がほとんどなかったから評判になったのだ。部下には十手を振り回すなと命じ、通りがかりの夫婦喧嘩を仲裁してやったりの気さくさで町人に大人気だった。
「無宿人を収容所にぶちこみ余った者は佐渡送り」というのは実は田沼時代からやっていたことだが、待遇がひどいので死者・逃亡者が続出していた。平蔵は銭相場に手を出してまで財源を確保し環境を改善したのである。
松平定信に陰で山師呼ばわりされているのも知らず頑張っていたが、その定信も失脚すると気力が衰え五十才で病死。自宅には後に遠山の金さんが住んだ。
十50
重松一義「鬼平・長谷川平蔵の生涯」(1999.新人物往来社)・山本博文「武士の評判記」(2011.新人物往来社)
松平定信/田沼意次/遠山金四郎

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