おおつきげんたく大槻茂賢
大槻茂賢
仙台藩・西磐井郡の郡長の分家に宝暦七年生まれた。一関に引っ越して父子ともに建部清庵に学び、さらに江戸に出て玄白と良沢に学ぶ。玄沢の名は 玄白・良沢を合わせたというのが通説だが、単に故郷の地名「黒沢」にちなんだとも言われる。学者仲間では磐水の号で呼ばれていた。
彼の性格は緻密にして厳格、息子にまで「心が狭いと言われるけど長くつきあっていれば優しい所も見えてくるよー」と書かれたくらいだった。たかがタバコについての エッセイをモノモノシイ漢文で書いて司馬江漢に笑われたりした。
仙台藩士として津太夫一行の聞き取り「環海異聞」などの仕事をしたほか、若年寄・堀田正敦(寛政重修諸家譜の編纂者)のブレーンもやっていた。文化六年没。
桂川甫周と「オランダ語を正確に訳するためには日本語のボキャブラリーも増やさなくては」と話し合い、次男を松崎慊堂に学ばせ漢学者にする。 すなわち頼山陽と並び称された名文家(奥羽列藩同盟のイデオローグ)の大槻磐渓、さらにその子達が初の近代的日本語辞典「言海」を作った如電・文彦兄弟である。
六162-183,206,272,326七9-19,71-77,102-109,265-288八10,106,240,269-273九48,239,272-280十55-56十一260-262十二51,86,95,156-168,251 十三127-128,133,266十七32
A・金子務「江戸人物科学史」(2005.中公新書)・「日本思想大系 洋学・下」(1970.岩波書店)・高山宏「言葉の海へ」(2000.岩波ライブラリー)・ 鮎沢信太郎「山村才助」(1959.吉川弘文館人物叢書)
建部清庵/前野良沢/杉田玄白/中川淳庵 /桂川甫周/稲村三伯/司馬江漢/津太夫/ 工藤平助/建部亮策/松崎慊堂

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