おおたしょくさんじん大田覃
大田直次郎・毛頭陳奮翰・四方赤良・安本丹親玉
※苗字は武蔵国の大田目という地名からきているが、いつか誰からか「太田」と書く人が増えた。ここでは希望コミックス版索引に従う。
寛延二年江戸牛込に生まれる。最初漢文を学び南畝(実は「詩経」が出典。格調高いね)と号し十八で「明詩擢材」を編集。しかし同門の平秩東作に源内を紹介され戯作に走る。 明和四年「寝惚先生文集」で一躍人気作家になる。土山宗次郎の取り巻きになり、毎日のように料亭遊郭で豪遊した。
寛政の改革を機に堅気になることにし、 寛政六年第二回学問吟味で首席合格。文官としても精勤し、林述斎(昔の遊び友達)から「孝義録」の仕事をまわされ、八百人の略伝を一年で書き上げた。 さらに竹橋の書物庫から重要書を採録した「竹橋余滴」シリーズは、原本が散逸した今では貴重な史料になっている。
享和元年から翌年まで大坂銅座に出張。 現地で揮毫を頼まれ蜀山人(銅のことを蜀山居士ともいう)の号を使い始めたが、本当は関西ノリは苦手だったらしい。江戸歌舞伎に上方風を持ち込んだ三世歌右衛門を嫌っていた。
文化元年長崎出張。そこへ偶然レザノフ使節団が来航。しかしそちらは主に金さんの父が対応して、南畝は中国人と多く交際している。
晩年は息子の精神異常に心を痛めながら文政六年没。
※親譲りの水泳の達人、京で知り合った上田秋成によると剣豪でもあったとか。
※※「早蕨の握りこぶしを振り上げて山の横面はる風ぞ吹く」が引用されている落語は「愛宕山」である。
十二104-111,243-246,296十三207十四22十八269
浜田儀一郎「大田南畝」(1986.吉川弘文館)・杉浦明平「日本の旅人8・太田蜀山人」(1974.淡交社)・渡辺保「江戸演劇史・下」(2009.講談社)・ 「滝田ゆう落語全集(全)」(1988.ちくま文庫)
松平定信/平賀源内/平秩東作/須原屋/土山宗次郎/林述斎/遠山景晋/近藤重蔵/カンニング侍/中村歌右衛門/レザノフ

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