こんどうじゅうぞう近藤守重
ヨフトホーヘル
明和八年、御先手組与力の子として生まれた。御先手組はヒマなわりに実入りは多い身分で、一生遊んで暮らそうと思えば楽なのだが、重蔵には異常なまでの上昇志向があった。 若くして大量の書物を買い込んで白山義学という塾を作り、見識をアピールした。跡を継ぐなり盗賊をとっつかまえ、逢坂剛が小説化するほどの評判になる。
学問吟味に合格したときに、試験担当者の堀田正敦・中川忠英・石川忠房らと近づきになれて、この人たちが蝦夷地積極開発派だったのだ。彼らの引き立てで蝦夷地御用となって択捉島に渡り、 「大日本恵登呂府」の碑を建てる(実際に揮毫したのは下野源助こと木村謙次)。さらに高田屋嘉兵衛に択捉航路を開かせた。
彼が出したアイデアの中には、 「札幌に政庁を置く」「小樽に港を開く」など多くの先見性があった。しかし近藤を引き立ててくれた開発派の上役たちが異動していき、消極派の水野忠成が政権を握ると微妙な立場になっていく。
重蔵が書物奉行に任じられたのが左遷なのかは意見が分かれる。擁書城と称して一階50畳二階26・7畳のでかい書斎を築き、大田南畝たちを集めて幕府蔵書の点検整理事業を成し遂げた。 身分は御家人から旗本に昇進したが、実収入はむしろ減ってしまい、家計のやりくりに四苦八苦、これもイライラをつのらせる一因になった。
近藤は富士山が大好き(というかカルト信者) だったので、大坂にとばされるとき目黒の別邸裏にミニ富士山を築造させていた。ところが隣家の百姓がこれを勝手に見世物にして金儲けしていた。帰って来た重蔵は大激怒し争いになる。
息子が起こした殺傷事件で自分も評定所に引っ張られた。「昌平坂学問所を廃止しなければ自白しない」などと訳の分からないことを供述して筒井政憲にたしなめられた。 大溝藩にお預けとなったがそこでも近江の博物誌を編纂し、結構尊敬された。
文政十二年に没。その後「近藤新富士」という地名は昭和34年まで残っていた。
※ティータイムのおやつはコンペイトウが好き。意外とかわいい所もある。
※※自分で作った石像は東京都北区滝野川の正受院に現存する。デザインはなんと谷文晁だという。
十二83,111-114,170-211,257十三207,268十四22-24十六201十八269
幕末一94,96八170
A・谷本晃久「近藤重蔵と近藤富蔵」(2014.山川出版社)・「森銑三著作集第五・九巻」(1971.中央公論社)・島谷良吉「最上徳内」(1977.吉川弘文館人物叢書) ・種村季弘「江戸東京《奇想》徘徊記」 (2006.朝日文庫)・洞富雄「間宮林蔵新装版」(1986.吉川弘文館人物叢書)
高田屋嘉兵衛/最上徳内/下野源助/ 石川忠房/大田蜀山人/筒井政憲/谷文晁

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