へづつとうさく | 立松懐之 |
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へのような名前の戯作者 | |
享保十一年生まれる。内藤新宿で「稲毛屋金右衛門」として煙草屋をやりながら、江戸六歌仙のひとり内山賀邸に詩文を学ぶ(まじめな文章では
立松東蒙と名乗る)。やがて平秩東作(実は「書経」が出典。格調高いな)のペンネームで戯作も手がける。太田南畝を源内に紹介したり、土山宗次郎の依頼で蝦夷地調査に
行ったりかなりの名士になったが、炭焼きや材木商の事業で大損。文字通り山師と呼ばれる。 田沼失脚・土山斬首のあおりで急度叱の罰をうけた。この関係で 狂歌アンソロジーから作品が削除されたりしている。寛政元年没。 ※東作の蝦夷地探検は戯作者仲間で評判になったらしく、天明八年に恋川春町が 『悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶひいきのえぞおし)』という黄表紙を書いた。鎌倉幕府の財政難で蝦夷地に追い出された義経一行が松前の大王をこらしめて、 昆布と数の子を何万俵も持ち帰って浅草の市で売って大儲けという話。 | |
八112-113,221九192-195 | |
「近世文学研究事典」(2006.おうふう)・浜田儀一郎「太田南畝」(1986.吉川弘文館)・「江戸の戯作絵本第三巻」(1982.教養文庫) | |
平賀源内/太田蜀山人/土山宗次郎/ 荒井庄十郎 |