みずのただくに | 水野忠邦 |
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水野越前 | |
唐津藩主の子として寛政六年生まれた。大塩の乱で大坂東町奉行だった跡部良弼は実弟である。 唐津藩は実質二十万石とよく言われるが、本当は とっくに財政破綻していた(なまじ収入が多いから無駄遣いが増えるのだろう)。むしろ役得欲しさに出世を望んだという説もある。大塩の告発状で不正無尽講を行っていた事が暴かれている。 京都所司代をやっていたとき、晩年の光格上皇をお世話していた。上皇は忠邦を気に入って、「お前は礼節を知り天下を治める器量があるが、少し気位が高すぎる。 今の世は器量のないものが器量のあるものを越える事もよくあるのだから注意せよ」と訓戒し、愛蔵の笙を形見分けされた。たぶん忠邦はそのことをすっかり忘れていたが、 鳥居耀蔵に裏切られた時に思い出してホゾをかんだことだろう。 30年間も家斉・家慶に献身的に仕えてようやく筆頭老中になり、天保改革に取り組むが2年半で挫折。一度復活したが病気ですぐ辞めた。藩政もメチャクチャになっており、 水野家は大一揆に見送られて山形に引越した。 民生では保守的だが軍事はむしろ改革的で、領内に農兵隊を組織したり雷管銃を研究させたりした。オランダ王親書の件 ではただ一人開国を主張したという話もある。老中をクビになったときは皆あしざまに罵ったが、ペリー来航の頃になると「阿部は何をグズグズしている!水野ならすぐに 開国の断を下したのに!」としたり顔で言い出す者がでてきた。角栄とか小泉と一緒、世の中そんなもの。 | |
十五145-150,155,193-195,228-230,233,239,248,271十六30-32,52-56,65,77,97,114-117,127-129,163-188,209,212-213,221,240,253-269
十七46,55-60,74-82,89,109-113,145,162-163,179-203,246,257,271-273十八6-24,56-60,135,143,242,269十九32-34,68,93-100,128二十21,115 幕末一15三186四43十二89 十四192-193十九20,31-32二十七47 | |
A・北島正元「水野忠邦」(1969.吉川弘文館人物叢書)・「大塩平八郎建議書」(1990.文献出版)・佐藤昌介「高野長英」(1997.岩波新書)・ 野口武彦「幕末バトルロワイヤル」(2007.新潮新書) | |
徳川家斉/徳川家慶/阿部正弘/大塩平八郎 /矢部定謙/江川太郎左衛門英竜/遠山金四郎/真田幸貫 |