まみやりんぞう間宮倫宗
常州筑波郡の百姓家出身、たぶん安永四年生まれ。寛政時代、隣村の堤防工事で才能を示し、近くにやってきた村上島之允(最上徳内マークUみたいな 人)が才能を見出して江戸に連れて行ったようだ。
村上の部下として蝦夷地に渡り、やがて正規の幕臣になり、さらに測量旅行中の伊能忠敬に出会って新しい測量術を 学んだ。
伊能が帰った後、残りの測量や道路工事をやっていたが、文化四年にロシアが攻めて来た。エトロフを守っていた林蔵たちは国際法を知っていたので、 話し合おうと白旗をかかげたが、ロシア軍は無視して攻撃してきた。これで林蔵は外人が大嫌いになってしまった。
千島から戻った林蔵はカラフト調査に転任し、 徳内のアドバイスをもらいながら二度にわたって探検、ついに文化六年カラフトが島であることを確認。さらに黒竜江省に渡って韃靼人を調査。これは中国側にも残ってない 貴重な史料である。
その後再び伊能忠敬に学び日本地図完成に協力したりゴローニンをストーキングしたりしていたが、文政五年に蝦夷地直轄が廃止された。林蔵は 勘定所支配の普請役に転属、いわゆる隠密時代に入る。シーボルト事件・竹島事件など多くの事件に関わった。
晩年は甲冑コレクションが趣味だった。天保十五年二月 病死。
※世界地図に唯一名を残した日本人だと言われるが、GoogleMapを見たら"Gulf of Tartary"って書いてあるよ?
十二83,257,271,287-292,294-295十三54-63,80-114十四13-14,29-30,50-56十七215-261
幕末一14,89-97四16,107七89八50十三43十四188,192三十一17,22
洞富雄「間宮林蔵新装版」(1986.吉川弘文館人物叢書)・「ロシア史料にみる18〜19世紀の日露関係第5集」(2010.東北大学東北アジア研究センター)
伊能忠敬/村上島之允/大久保忠真/ 吉雄忠次郎/高橋景保/最上徳内/藤田東湖/クルーゼンシュテルン

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