イヴァン=ピョートロヴィチ=クルーゼンシュテルン
※アダム=ヨハン=フォンという名前もある。
1776年エストニア生まれ。15で海軍に入り、スウェーデンとの戦争で奮戦して認められ、 イギリスに留学した。さらに対ナポレオン戦争で各地を転戦し見聞をひろめた。
貿易振興が国益のためと考えた彼は世界周航計画を立て、1803年に出発した。 貿易して儲かりそうな国はすべて調査対象だったのだが、便乗してきたレザノフが日本で騒ぎを起こしたので、航海記はもっぱら「日本周航記」として読まれている。
長崎で門前払いされたあとレザノフと別れて探検を続け、樺太も東側だけ測量した。帰国後1810年に「世界周航記」を刊行。実は間宮林蔵は樺太北東部を実測しておらず、 高橋景保はその部分が知りたくてシーボルトと取引したのである。
クルーゼンシュテルンは探検家というより軍政家として優れていた。 入念な準備と指導力により3年間の航海で病死者をほとんど出さず、体罰もだいたい無しで済ませたのである。後半生ではロシア海軍兵学校の発展にも多大な寄与をしている。1846年没。
※「間宮海峡」の事は報告してくれなかったが、日本海の事はちゃんと「日本海」と命名してくれた。
十七225-250
F・木崎良平「漂流民とロシア」(1991.中公新書)・「クルウゼンシュテルン日本周航記」(1966.雄松堂書店)
レザノフ/間宮林蔵/高橋景保

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