むらかみしまのじょう秦檍丸
本名は「はだ・あわきまろ」と読む。宝暦十年くらいに伊勢か志摩で生まれ、伊勢神宮の神主をやっていたが浪人となって旅と学問にあけくれた。
天明八年、松平定信は京都へ行ってきた帰りに、凄く足が速い男の噂を聞きつけた。さっそく引見してみると俊足のみならず学問全般に秀でた逸材なので、すぐ幕臣に 取り立てるよう計らったのだった。
古文書調査や海防対策のために関東一帯を視察中、常陸国筑波で林蔵なる才子の話を聞き、その才能を確かめて部下にした。
寛政十年より御普請役雇として林蔵を連れて蝦夷地調査に赴く。アイヌ語の地名研究をおこなったり、旧式技術だが10枚に及ぶ蝦夷地大絵図を製作し、これが伊能・林蔵 によるより正確な探検測量のため叩き台となったのだった。
寛政年間に伊豆・君沢郡(現三島市)の秋山富南という篤志家が、自費で伊豆の風土記を編纂し12年がかりで完成した。 村上はこれにも惜しみない協力をしている。私はたまたま地元の図書館でその資料を見つけたのだが、他にも日本中あちこちで人助けをしていたみたいだ。
謙虚な性格のため自分の功績をアピールしなかったが、彼を知る者は徳内・林蔵と並ぶ北方のパイオニアに数えている。文化五年八月に没。
十三60
C・洞富雄「間宮林蔵新装版」(1986.吉川弘文館人物叢書)・「森銑三著作集5」(1971.中央公論社)・「増訂豆州志稿・伊豆七島志」(1967.長倉書店)
間宮林蔵/松平定信/伊能忠敬

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