よしおちゅうじろう吉雄永宜
地図や禁制品受け渡しの場に同席していた通詞
吉雄幸左衛門の弟の孫。天明七年生まれ。長崎通詞といっても江戸で天文台に勤務し、高橋景保の手伝いをしてたのが長かった。
フェートン号事件でイギリスの脅威に直面した幕府は、文化六年長崎通詞に露・英語の兼修を命じた。忠次郎は英語辞書15冊を収集し、文政八年までに「諳厄利亜人性情志」を編訳。 「日本人の英国および英人に対する研究は、まずこの書より始まるというも、過言であるまいと思わるる」(徳富蘇峰)この英学を生かし、文政七年大津浜に来たイギリス人を尋問したのだ。
文政九年に江戸参府したシーボルトに付き添い、日本人と会談するとき通訳したり物品の贈答を周旋した。さらに長崎に帰ってシーボルトの手伝いを続けたが文政十一年逮捕。 永蟄居の刑で米沢に送られ、天保四年二月二十九日病死した。
吉雄は以前からゼンソクを患っていたのですぐ死んでしまったが、ほかの二人(亀田に馬場為八郎・七日市に稲部市五郎) はわりと長生きし、現地で蘭学を教えたりしてたらしい。幕府も何かあったら再起用したくて内々に厚遇を命じていたのかもしれない。
十三81-88十四43,69-70
片桐一男「シーボルト事件で罰せられた三通詞」(2017.勉誠出版)・呉秀三「シーボルト先生3」(1968.平凡社東洋文庫) ・徳富蘇峰「近世日本国民史・堀田正睦(一)」(1981.講談社学芸文庫)
吉雄幸左衛門/間宮林蔵/高橋景保/最上徳内

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