はしもとさない橋本綱紀
天保五年福井郊外で外科医の子に生まれ、幼くして神童と呼ばれた。嘉永二年大坂に行き適塾に入学、二年数ヶ月で一流の蘭方医になる。このころ 梅田雲浜や横井小楠と知り合った。越前に帰って家督を継ぎ、さらに江戸に行って杉田成卿らに学んだ。ここで藤田東湖、西郷吉之助などと親しくなり政治に関心を持つ。
左内は未来に国際連合ができることを予測しており、日本も取り残されぬよう近代化を進めなければいけないと唱えていた。しかしそのためには雄藩諸侯による 幕藩体制強化で十分だと思っていた。だから彼を勤皇とか倒幕の志士とみなすのは正しくない。
安政三年藩校明道館幹事となり実学中心に改革を進め、松平春嶽に認められた。以降の行動は本人の意思より藩の命令を優先させていると見るべきである。
春嶽が一橋擁立運動の主唱者だったので、左内は御用係として江戸で奔走する事になる。さらに上京した堀田正睦たちの援護に遣わされる。積極開国による幕藩体制維持が 本意なのだから、とりあえず条約勅許だけ運動すればいいものを、もうひとつ一橋建儲の勅許までもらってこいと命じられたので話がややこしくなる。唯一の親幕派だった 九条関白が南紀派に抱きこまれたため、こっちは攘夷派公家に頭を下げる事になり、尊皇攘夷派とごっちゃにされる元となった。飯泉喜内あたりは名前も知らなかったのだが。
春嶽が隠居させられてからは政治から遠ざかっていたが結局逮捕され、不本意にも頼三樹や喜内と一緒に首をはねられた。時に安政六年十月七日、享年わずか二十六。
※他の志士は「自分が勝手にやった事です」と主君をかばっていたが、左内は「全部主命でやりました」と正直に供述していた。ヤケになっていたのか、 学者として嘘がつけなかったのか。
十四175
幕末四143-147十111-112十一146十二26十四24-25,34,57,88-100,199-202十五55,71-72,189-195十六3,24十八7,113,201 十九44,57,78-90,108,137,170,187二十二30二十五8二十六156,194-195二十七52
山口宗之「橋本左内」(1962.吉川弘文館人物叢書)・吉田常吉「安政の大獄」(1991.吉川弘文館)
小林民部/三条実萬/藤田東湖/梅田雲浜/島津斉彬/飯泉喜内/頼三樹三郎

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