さとういっさい佐藤坦
安永元年、美濃の生まれ。若いころの通称は捨蔵。岩村藩家老を経て林述斎に招かれ林家私塾の塾長になった。昌平坂学問所儒官となったのは七十才から。
思想は陽朱陰王、主著「言志四録」は西郷隆盛も愛読していたそうだ。「宇宙は我が心に外ならず」他人が何と言おうと自己を貫くのが大事というのが信条だが、逆に言うと 「自分の中で理屈がつけば外部の他者はどうなっても平気」ということにもなる。
崋山を見捨てた件などあって、晩年は評判が悪い。最後はすっかりボケちゃったが、 講義の時だけシャッキリしていたそうだ。ペリーとの交渉団にも名前だけは連ねている。安政六年没。
※一斎先生には時計コレクターの趣味もあった。和時計ばかりか洋式クロノメーターまで多数所持し、 公儀天文方の観測用に貸してあげたこともある。伊能忠敬の墓碑銘はそんな縁で書いたものだろう。
※※崋山作の肖像画は、最低11枚のスケッチを経て文政四年完成したものだが、 結局最初のほうの素描が高く評価されている。美術全集などで見比べると興味深い。
※※※あの樋口一葉の名作「にごりえ」に実は一斎先生が関わっているという話がある。
「お力が自分の祖父は学者であったと朝之助に話すところがある。
佐藤一斎の孫に当る者が指ヶ谷町寄りの方で、銘酒屋をやっていて、其処に一斎の書いた額が懸って居るので、 それを見に行く客があったという噂があった。尤も一葉女史が福山町へ越した時分には最早その家は無くなって居たそうである。
お力の祖父の話はそれから取ったのであろうと思われる」 (馬場孤蝶)
当時の銘酒屋とはブランド物の酒を売る店ではなくピンサロみたいなもの。江戸一番の大学者の子孫がこのざまとは、崋山のたたりかしら。
十三205-209,214,218十五268十九87-88
A・「日本思想大系・佐藤一斎・大塩中斎」(1980.岩波書店)・「渡辺崋山・秘められた海防思想」(1994.ぺりかん社)・野口武彦「幕末の毒舌家」(2005.中央公論新社) ・中村士「江戸の天文学者星空を翔ける」(2008.評論社)・馬場孤蝶「明治文壇の人々」(2009.ウェッジ文庫)
渡辺崋山/林述斎/松崎慊堂/水野忠邦/ 中井竹山/大槻玄沢/伊能忠敬

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