なかいちくざん | 中井積善 |
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わてが竹山だすー | |
このマンガでは1コマしかでてこないが、日本思想史上なかなかの大物だ。 大坂・懐徳堂学主の息子として享保十五年生まれ、弟の履軒とともに 朱子学を学ぶ。宝暦八年には懐徳堂の預り人(実質的校長)となり、荻生徂徠批判で有名になった。 鴻池などの出資で造られた懐徳堂はもともと町人の町人による 町人のための学校だった。商売の都合しだいでいつ出席しても中座してもかまわないし、授業中は士農工商の序列がない。江戸の昌平坂と好対照な上方朱子学総本山だから、 佐藤一斎など全国の学者が一度は門をたたいた。脱藩してきた麻田剛立もまず中井兄弟を頼って大坂に来たのである。しかし竹山は町人相手にあきたらず、しだいに幕府権力に 接近していった。 松平定信と懇意になり、寛政三年「草茅危言」を献上した。この中には皇室・経済・外交など広範囲な提言があり、石川島人足寄場のように実現した 事もある。ワイド版5巻120ページの「蝦夷地ほっとけ論」もこの建白書に書いてあったことだが、本来は「アイヌ侵略はヨクナイ」という平和思想が根底にあったようだ。 彼の政治志向は旧知の上田秋成などから批判を受けたが、国学や蘭学もとりこんだ懐徳堂思想空間は山片蟠桃などユニークな知性を生み出している。文化元年没。 ※「国史大事典」等に載っている肖像画なるものはなぜか後ろ向きで顔が見えない。「日本肖像大事典」でやっと素顔が分かる物を見つけたが、まあ、 隠したくなる気持ちも分かるツラである。 | |
十三207 | |
A・宮川康子「自由学問都市大坂」(2002.講談社選書メチエ)・「日本肖像大事典・中」(1997.日本出版センター) | |
松平定信/林述斎/麻田剛立/頼春水 /佐藤一斎 |