― | ソフィー=アウグスタ=フリデリーケ |
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かたりな女帝 | |
ピョートル大帝の7代あとのロシア皇帝。その初登場シーンは工藤平助の斜め上をいっていた。 ドイツのアンハルト=ツルプスト公女として1729年生まれた。初名ゾフィー=アウグステ、 男子を期待していた両親には愛されず、フランス人家庭教師にべったりだった。生涯の男勝り志向とフランス文化好きはここが淵源らしい。 夫のピョートル三世もドイツ育ちで、二人はプロシア王フリードリヒ二世の政略によりロシアに送り込まれたのだ。しかし旦那の方はドイツに忠実だったが、 改名エカテリーナ二世はロシアにすっかり馴染んでしまい、ついに貴族や近衛兵と共にクーデターを起こして、旦那を放逐し1762年即位した。 はじめ彼女は保守派の御神輿と思われていたが、 しだいに啓蒙専制君主として成長していく。皇帝の権力を制限するはずだった元老院も立法委員会も自由経済協会もすべて独裁のための下部組織にすり替わっていった。ヴォルテールのメル友で、 ロシアで最もフランス革命の意義を理解していた彼女だからこそ革命派を弾圧したのだった。 幾人も男をとっかえひっかえ重用したが、真に権力を分け与えることはなかった。ラジシチェフ たち自由主義者を弾圧したが、自分は雑誌に匿名コラムを書きまくっていた。 明治日本で維新と復古が一体だったように、エカテリーナによるロシア近代化の最終目標は東ローマ帝国復興だった。 バルカン半島めざして進撃しポーランドを分割しクリミアを併合したが、フランス革命で欧州情勢がワヤクチャになって計画は中途に終わった。 晩年の悩みは皇太子パーヴェル(光太夫に馬車を貸したあの人)であった。ピョートル三世の子かは疑われるがドイツ贔屓はそっくりで、おまけにいつのまにか フリーメーソンに入会していた。いっそ息子を飛ばして孫(アレクサンドル一世)に跡を継がせようかと考えていた所で1796年急逝。遺体は世界一嫌いだった夫と同じ墓に葬られた。 パーヴェルの意趣返しだろう。 ロマノフ朝の「ギリシャ計画」はその後も推進され第一次大戦で破局に至る。 | |
七14九10十一60-62,121-125,132-134,142,163,167十二44-47十六8 幕末九76十一168 | |
H・カレール=ダンコース「エカテリーナ二世上・下」(2004.藤原書店)・デヴィッド=ウォーンズ「ロシア皇帝歴代史」(2001.創元社) | |
ピョートル1世/発育不良の夫/大黒屋光太夫に馬車を貸した皇太子 /アレクサンドル一世/キリル・ラックスマン/アダム・ラックスマン/ 大黒屋光太夫/ラジシチェフ |