かんちゃざん管晋帥(ときのり)
字は礼卿、通称は太仲。幕末編27巻にいたって突然出てきて頼山陽と塾を経営していた人だが、本当は江戸中期において日本漢詩を革新した巨匠で、 広瀬淡窓とかと同格以上の存在であった。
寛延元年に備後国神辺で生まれ、明和時代に京都へ遊学して漢学を勉強する。親もインテリだったので長男なのに文学の道を選ばせてもらい、 郷里に私塾「黄葉夕陽村舎」を開いたのが天明ころ。やがて福山藩主阿部正精(正弘の父)に認められ、藩校「廉塾」に昇格した。
彼の漢詩の革新性とは、旧来の形式主義や田沼時代の外国 ・新しもの好きを離れ、身近なところに題材をとって明るく表現する所にあった。今で言う日常系である。また茶山は人の作品の批評・添削に特別の方法があり、 全国から教えを乞う者が続々と神辺を訪れた。伊能忠敬や梁川星巌夫妻なども来訪している。
近所の芸州竹原に住んでいた頼春水とは特に親友であり、息子の山陽が遊蕩で廃嫡されたのを引き取り、 塾の講師に雇った。ゆくゆくは養子にして跡をつがせてやるつもりだったのだが、山陽は田舎が嫌いだったので、1年くらいで後足で砂かけて京都に出奔してしまった。 さすがに茶山も怒ったが、そのあと春水の死などがあって、数年で和解して師弟関係に戻ったのだった。
茶山は文政十年に亡くなった。お悔やみに行った頼山陽は形見分けに竹杖をもらってきたが、 帰りに尼崎で落としてしまった。これを探し出してくれた町与力があの大塩平八郎だったのだ。山陽が臨終の時に大塩の事を心配していたのはそんな縁によるものである。
幕末編二十七22
A・富士川英郎「管茶山と頼山陽」(1971.平凡社東洋文庫)
頼山陽/阿部正弘/伊能忠敬/頼春水/ 梁川星巌/大塩平八郎

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