よしだしょういん吉田矩方
寅次郎、瓜中万二、二十一回猛士
文政十三年(天保元)杉百合之助の次男として生まれ、天保五年吉田家に養子に行く。弟の敏三郎は生来口がきけず、そのことが松陰に社会的弱者への いたわりを持たせたともいう。
山鹿流軍学師範として、幼くして毛利家総司令官になった。…と言われるが、村田清風の伝などを読むと、当時長州藩はすでに洋式兵学 へ移行しつつあったはずなのである。その渦中で松陰がどんな立ち位置だったかがよくわからない。
黒船来航以降、安穏としていられなくなり旅やら密航やら入獄やら 繰り返した。玉木文之進が始めて久保五郎左衛門が引き継いでいた「松下村塾」を安政四年に正式に継いだ。弟子の一人・正木退蔵が英国留学中にR・L・スティーブンソン と知り合い、当時の塾の雰囲気を詳しく語り伝えている。
理念としては水戸学に追随しており、幕藩体制下での攘夷、天皇絶対のモットーだった。しかし一方で松陰は 孟子の研究もライフワークにしていた。孟子といえば性善説と革命思想であり、それが松下村塾での個性尊重教育となり、門下生による体制転覆につながったのだった。
無理に死のうとすることはないのだと悟ったころに江戸からお迎えが来て、安政六年十月二十七日斬首。
一177三40十四103,197-200十五103-114,140十六33,43-51十八134十九52-54,79,102-126,141二十101,297-310
幕末一7,15,19,192-212二3,7-55,64-65,69,86-120, 127-143,150-159,188-201三3,24-33,37,85-91,106-118,150-163,202-206四3,34-36,54-56,63-69,78,83-84,91,143五3,184,214六3,8-138七7,21,49,55-56,66-72,159八138-169 九7十39-40,58-74,94-96十一3,201-208十二29十三211-219十五159十六3,189十七7,28-35,69-73,88-127,145-149,154,156-182,190-191,196十八7,35-39,52-74,118-148,201十九36-41,44,53-57, 65,91-98,104-105,111-121,145二十143-157二十一9二十二26,30二十三49,166二十五13-22,59二十六8,156,191,196二十七22,118三十58三十一71,132三十四9-11,25-26,183-194
A・高橋文博「人と思想・吉田松陰」(1998.清水書院)・田中彰「吉田松陰」(2001.中公新書)
吉田大助/村田清風/山鹿素行/ 金子重輔/マシュウ・カルブレイス・ペリー/梅田雲浜

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