やまがそこう | 山鹿高興 |
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元和八年会津に生まれ、北条流兵学、儒教古学派、習合神道などを学びそれぞれ一家を立てた。若くして神童と名声高く諸候より引く手あまただったが、
美空ひばりか吉永小百合か、親が余計な口出しするせいで話がまとまらない。 寛文五年「聖教要録」を書いて朱子学を批判し、保科正之の怒りを買って赤穂へ流される。 忠臣蔵といえば山鹿流陣太鼓だが、実は赤穂時代の正式な弟子で討ち入りに参加した者は一人もいない。だいたい素行の思想から言えば田舎大名の復讐など小さな正義である。 むしろ「中朝事実」において、中国は何度も王朝が変わったが日本は万世一系だから偉い、という理屈を言い出した人として後世に影響を与えた。 保科が死んだので赦免され、 江戸に帰ってから貞享二年に急性A型肝炎で没。平戸城を設計したのは息子と弟子である。 ※吉田松陰が山鹿流だったのは有名だが、実は井伊直弼も山鹿流免許皆伝。 | |
十六47-48 幕末二16 | |
堀勇雄「山鹿素行」(1959.吉川弘文館人物叢書)・杉浦守邦「江戸期文化人の死因」(2008.思文閣出版) | |
大石内蔵助/保科正之/吉田松陰/ 吉田大助/石出帯刀 |