かねこしげのすけ
市木公太
長州藩士久芳内記の足軽、重之助などとも書く。もとは商人の子だったという。
憂国の念から藩籍を脱し、渋木松太郎と名を変え鳥山新三郎の塾に寄宿していた。長崎から江戸に帰った松陰に傾倒し、いっしょに黒船密航を企てた。
病身で長州に引き取られ、藩の苛酷な取り扱いにより安政二年正月十一日岩倉獄で病死した。松陰は彼のため佐久間象山や久坂玄瑞から原稿を集め、4年がかりで「冤魂慰草」という追悼同人誌を作った。
幕末六3,8-138七21,66-72八142-145,155,166十二29二十三49
高橋文博「人と思想・吉田松陰」(1998.清水書院)・奈良本辰也「維新的人間像」(1979.NHKブックス)
吉田松陰/マシュウ・カルブレイス・ペリー

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