かんいんのみや閑院宮典仁
天皇の父
江戸時代、政治的思惑から皇位を継いだ以外の親王は出家させるしきたりになっていた。新井白石は皇族が少ないと万一の時に皇統が絶えてしまうと危惧し、 幕府を動かして東山天皇の第七皇子秀宮に千石を与え閑院宮家を創設した。こうして白石は皇恩の万分の一に酬いたのであった。…と「折たく柴の記」で自画自賛しているが、 京都側の記録では東山帝御自身の遺志により近衛家が運動した事になっている。どっちが本当なのかね。
皇室系図参照
ともあれ危惧はすぐに現実のものとなり、後桃園天皇のあと直系が絶えたので、 二代目典仁親王の第六王子が光格天皇となった。帝は父君に臣下の礼を取らせるのが心苦しいので、ワイド版にして足掛け3巻にわたる尊号一件がはじまる。
この方のために彦九郎が腹を切るわ定信がクビになるわ日本中大騒ぎになったわけだが、当の御自分はどうお考えだったのか?よくわからんが心安らかではなかったろう。 尊号一件終結のあと間もなく、寛政六年に薨去。ずっとあと、明治十七年になって名誉上皇として認められ、「慶光天皇」の諡号を追贈された。
閑院宮家はその後帝国陸軍のえらいさんになったが敗戦で臣籍に降下、スキャンダルにまみれたあげく断絶した。
九260十一217-274
A・官公庁資料編纂会「日本皇室大鑑」(1978.日本文献編纂会)・小田部雄次「天皇と宮家」(2010.新人物往来社)
光格天皇/高山彦九郎/林子平/ 松平定信/鷹司輔平/中山愛親

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