たかだやかへえ高田嘉兵衛
超一流の人物
明和六年元旦、淡路島に生まれた。若くして気性激しく、奉公先のお嬢様を連れ出して神戸に渡って水夫となり、あっというまに船頭に出世。 北風荘右衛門の援助で二十六にして独立した。
時に幕府は蝦夷地を直轄化し開化政策をとっていた。嘉兵衛は松前商人の既得権益が及ばない東蝦夷地に着目し、 箱館を基地として発展させていく。近藤重蔵の依頼でエトロフ航路を開き、場所請負制を近代的経営に改め島を繁栄させ自分も儲けた。
公儀の定雇船頭にもなり官船建造を一手に引き受け(木を切った後はちゃんと植林した)最盛期を迎えたが、文化九年ロシア船に捕らえられた。彼は自らの意思で部下5人とカムチャツカに渡り、 現地人にロシア語を教わり、リカルドの信頼を勝ち取って紛争解決を模索する。翌年蝦夷地に帰り幕府と折衝してゴローニンとの捕虜交換を果たし、ついに事件は解決した。 「タイショウ・ウラー」と嘉兵衛をたたえるロシア兵の声がいつまでもこだましていた。
さすがに心身を磨り減らして淡路に戻り、箱館の店は弟に譲り、実家の跡目は次男坊に継がせた。 隠居後も地元のインフラ整備に貢献したりしたが、文政十年に病没した。享年五十九。
リコルドは別れる時に嘉兵衛に信号旗を贈り、「あなたの船にこれを掲げていればロシア艦は襲わない」 と約束した。ところがこの友情が仇となる。高田屋を恨んでいた復活松前藩がそれを口実に密貿易の濡れ衣を着せ、二代目社長の金兵衛は船を全て没収されるに至った。 ただし高田家自体が滅びたわけではなく、淡路の名家として存続しブログまで作っている。
※2006年にロシア地理学協会の提案で、カムチャツカ州の国立公園内に 「ゴローニン山」「リカルド山」「カヘエ峰」という地名がつけられた。
※※「釣りキチ三平・平成編」では釧路の谷地坊主がいきなり自分は嘉兵衛の子孫であると言い出し、 以下延々「菜の花の沖」漫画版になってしまう。
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幕末四12,110五130-131七46,59
A・生田美智子「高田屋嘉兵衛」(2006.ミネルヴァ書房)・柴村羊五「北海の豪商・高田屋嘉兵衛」(2000.亜紀書房)
近藤重蔵/最上徳内/バシリー・ミハイロヴィッチ・ゴローニン/中川五郎治/リカルド

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