かきざきはきょう蠣崎廣年
※通称は弥次郎・将監など、波響は天明ころからの雅号で、家が海辺にあったのだ。
松前家12代藩主の五男として明和元年に生まれ、分家采女流の養子に入る。 この家系は代々当主が変死・切腹するもの続出しており、まあ藩の不祥事を後始末させられる家柄みたいだ。
幼くして江戸に遊学、田沼時代の自由な空気を吸って育つ。 まず建部綾足に師事(奥平昌鹿や伊能魚彦の兄弟弟子ということになる)、ついで宋紫石(司馬江漢の同門にもなる)に南頻派の写実主義を学ぶ。その間に風流(まあ吉原とかさ)も覚えた。
松前に帰り家老職についたところでクナシリ・メナシの乱が起こり、一方の将として鎮圧に当たった。もう乱はおさまってアイヌはまた完全に服属しましたよ、 と内外にアピールするために描かれたのが「夷酋列像」であり、彼の画業としては例外的な物だ。「風雲児たち」での出番はここだけだがこの人の人生はここからが長いよ。
波響は「夷酋列像」を光格天皇の上覧に入れたりその他政治工作のため京へ上った。岩倉家で高山彦九郎と知り合い、公家への周旋をしてもらったりオランダ語の本(良沢の著書?) を借りたり、土産に持ってきたオットセイの吸い物を振舞ったりしている。その一方で京都の文化人グループと交流し、円山応挙に改めて絵を学ぶとともに新興の性霊派漢詩 (難しい言葉を使わず新鮮な感覚を詠おうという運動)へ参加した。
彼は大原左金吾という志士と仲良くなり、蝦夷地に連れて帰って藩主のブレーンに推薦した。 ところがこの大原は殿様とケンカになり、江戸に帰って幕府に「松前はロシアに寝返るつもりです」と讒訴した。これが一因でとうとう松前藩は蝦夷地を召上げられてしまった。
波響の後半生は松前家の蝦夷地帰還運動に捧げられた。このころ描かれた資金稼ぎ&贈答用の花鳥風月画が彼の作品の大半を占めている。 絵画と漢詩の人脈を総動員して15年がかりで蝦夷地を取り戻し、文政九年に六十三歳で没した。
※「夷酋列像」の原本は、今なぜかフランスのブザンソン美術館にある。
八115十110‐111
A・榎森進「アイヌ民族の歴史」(2007.草風館)・中村真一郎「蠣崎波響の生涯」(1989.新潮社)
蛎崎信広/奥平昌鹿/伊能魚彦/司馬江漢/ 高山彦九郎/光格天皇

目次へ戻る