いのうなひこ伊能豊彦・景豊・景良
※辞典類では「揖取魚彦」のペンネームで載つてゐる。魚彦は「ナビコ」と読むかもしれない。
このマンガでは2コマしか出てこないが、 実は国語史上不滅の業績を残した偉い学者である。伊能一族のうち佐原市下宿区に住んでゐた茂左衛門系の分家に享保八年生まれ、十三歳で名主となつた。
若いころから俳諧を好み、建部綾足(馬琴に先駆け長編読本を書き始めた文学者)を招き教へを受けた。同時に絵も学んだ。 林子平の父とはこの人を介して知り合つたのだらうか?
古書にいはく、ある日その源五兵衛が佐原にやつて来て、賀茂真淵の悪口をさんざん言い立てた (どうも失業の原因が真淵がらみだつたらしい)。伊能はかへつて真淵国学に興味を持ち、つひには江戸に行つて入門し、県居四天王の一人にまでなつた (残り三人は加藤千蔭・村田春海・加藤宇万伎)といふ。松坂の本居宣長に師匠の訃報を伝へたのも魚彦であるが、直接会つてはゐないやうだ。
魚彦は契沖が手がけてゐた日本語表記法の研究を体系化し、「古言梯」として出版した。今で言ふ「歴史的仮名遣い」がここに定まつたのである (彼の功績をリスペクトしてこのペエジも旧仮名で書いてみました)。他にも万葉集や百人一首など多くの研究がある。
真淵の死後には弟子の多くが魚彦門下にスライドし、特に中津藩主奥平昌鹿は月棒を給した。伊能の家名は全国に轟いてゐたのであり、 後に忠敬さんが全国測量旅行をするとき大いに助けとなつたと思ふのだが、それに触れた伊能忠敬伝はない。
天明二年に没した。
十二138
A・中澤伸弘「やさしく読む国学」(2006.戎光祥出版)・伊藤一男「新考伊能忠敬」(2000.崙書房)・「江戸文人辞典」(1996.東京堂出版)・ 「国学者伝記集成」(明37刊.1997復刻.東出版)
伊能忠敬/林源五兵衛/奥平昌鹿

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