ずしょしょうざえもん調所恒篤のち広郷
安永五年、川崎家に生まれ、調所家に養子に入る。島津重豪の茶坊主となって江戸に行き、裏千家の茶道、石州流の生け花を修めた。やがて斉興の側近に移る。
何か才覚を認められる機会があったらしく、薩摩に帰り町奉行をやって国情を学んでいた。江戸では重豪の浪費がいよいよどうにもならなくなり、調所を呼び戻して建て直しに当たらせた。なぜ茶坊主にかというと「プロパーの勘定方は商人たちと付き合いが長くてとても借金踏み倒しを言い出せないから」みたいな理由である。
250年ローンとか密貿易とか荒っぽい話ばかり有名だが、調所はもともと手紙代筆のバイトをしていた位な繊細で几帳面な人物であり、米俵の編み方などから始め細かい工夫をコツコツ積み重ねて財政再建を果たしたのだ。
ためこむばかりでなく、肥後の岩永三五郎を招き西田橋などのインフラ整備も行った。これらの政策は佐藤信淵がコンサルタントしたとも言われるがはっきりしない。
高島流兵学の導入もしているが、「中途半端な軍拡よりもさっさと貿易を始めたほうがいい」と思っていた。しかし世子の斉彬は阿部正弘にノセられ中途半端な軍拡に身代をはたこうとする(調所にはそうとしか見えない)。ものすごい暗闘の末に嘉永元年服毒自殺。
十八219-244十九115二十5,26-51
幕末一116
B・芳即正「調所広郷」(1987.吉川弘文館人物叢書)
島津重豪/島津斉興/島津斉彬/佐藤信淵/村田清風

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