あさだごうりゅう麻田妥彰
綾部妥彰
享保十九年、杵築藩儒者・綾部絅斎の次男坊に生まれた。苗字は丹波国綾部郡からやってきて国東半島麻田村に住み着いた先祖に由来する。
門人が書いた伝記にいわく、彼が三歳の時、父と庭で月を見ていた。
「おとうさん、おつきさまのうえにはなにがあるの?」
「月の上には太陽があるよ」
「たいようのうえにはなにがあるの?」
「太陽の上には星があるよ」
「ほしのうえにはなにがあるの?」
「それは父さんにもわからん」
このときから少年は星の上にあるものを探すことを決意した…というがホントかね。
剛立はそれから天文の勉強に没頭し、ために顔は土気色になったほどだった。 心配した親は外で遊んでこいと命じたが、剛立は門を出た後すぐ家に戻って土蔵の中で勉強を続けた。
さすがにこれじゃ体がもたないと思ったのか、医学もあわせて 勉強した。庭に薬草園を造り近所に薬を分け与えた。山脇東洋が人体解剖を行った話を聞いて自分も三度ほど腑分けをしている。
剛立がすごい学者になったのを知った藩主は、彼を側近にして参勤交代について来いと命じた。勉学に専念したい剛立は脱藩し、大坂にある懐徳堂(上方町人学問の 中心地)の中井竹山・履軒兄弟を頼って変名で塾を開いた。…というのが定説である。
異説では、ある時藩主が急病になって典医が治せなかったので、こっそり剛立に 薬をもらって試したらピタリと治った。しかし典医はその事を隠していた。剛立は思うところあって藩を出奔した。のちに藩主は真相を知って脱藩の罪を許し援助金まで 贈るようになったという。
当時の大坂は舶来品が流行で、中国語訳の天文書やイタリア製の望遠鏡が買えた。西洋天文学を取り入れ「消長法」という理論を編み出し、 ケプラーの第3法則を独自に発見するまでになった。幕府から改暦御用を命じられたが、代わりに高橋至時と間重富を江戸に送った。つくづく命令に従わない人である。
すごい酒飲みだったので晩年ヨレヨレになってしまった。寛政十一年没。彼自身の著作はほとんど残っていないが、三浦梅園(長崎の特異な哲学者)の宇宙論には麻田の知識 が生かされているそうである。また頼春水も友人のひとりである。
※国際天文学連合が剛立の業績を記念し、月の北緯7.3度東経49.9度にあるクレーターを 「アサダ」と名づけた。
十二117-121
A・鹿毛敏雄「月のえくぼを見た男麻田剛立」(2008.くもん出版)・金子務「江戸人物科学史」(2005.中公新書)・「麻田剛立資料集」 (1999.大分県教育委員会)・中野操「大坂蘭学史話」(1979.史文閣出版)
高橋至時/間重富/伊能忠敬/中井竹山 /頼春水

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