広瀬淡窓広瀬簡のち建
豊後日田で代々代官所御用達をやっていた商家に天明二年生まれた。十二才で書いた詩が、日田に来ていた高山彦九郎に褒められ一躍神童の名が広まった。 成人して筑前で荻生徂徠学派の亀井南冥に学ぶ。※徂徠は近代的思考法を持つ儒学者で、玄白や長英も影響を受けている。
生来病弱な淡窓は家業を継げないので、 学者としてやっていくことにした。視力も弱いので書物を精読できず、それを逆手にとって「細かい事にこだわらず諸家の説から大意のみをつかみ自分なりにアレンジする」 学風を編み出したのであった。折衷学派というやつである。
文化十年に咸宜園を設立、合理的なカリキュラムでたちまち日本一の大繁盛。 頼山陽も梁川星巌夫妻も川路聖謨も、九州に来たらまずここを訪ねた。あの大楽源太郎まで入門している。
晩年には日田代官所の手代も兼任した。安政三年没。
※長英が一時入門したといわれるが、日記を読むと日田に行った事はない。塾生だったのは岡研介で、先生の痔の手術をやらされたり している。
※淡窓は江戸期の日本を封建制でなく郡県制と認識していた。武士が城下町でブラブラ遊んでいるのが諸悪の根源であり、地侍に戻さなくてはいけない、 と「迂言」で述べている。つまり彼の農兵論とは、農を兵にするより兵を農にするのが主眼なのだ。
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幕末十五168二十七22
A・海原徹「広瀬淡窓と咸宜園」(2008.ミネルヴァ書房)・井上義己「広瀬淡窓」(1987.吉川弘文館人物叢書)・ 「日本思想大系・近世政論集」(1976.岩波書店)・佐藤昌介「高野長英」(1997.岩波新書)
高山彦九郎/頼山陽/梁川星巌/ 高野長英/岡研介

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