おかけんかい岡精
※研介はケンスケという名ではなくケンカイと読む号。あたしゃ20年くらいカンチガイしてました。
寛政十一年、周防国平生の生まれ。 父の代から眼科医であった。
長崎に行く以前、儒学も広瀬淡窓ほかに学んでいた。淡窓は咸宜園門人ベスト3の一人に研介を挙げている(あと2人は中島子玉・僧一圭)。 「その学におけるや篤く、信ずるところを開きて固くこれを執る。事を行うや質実にして方、言論明白」ベタボメである。
文政七年シーボルトに入門。 ライティング・スピーキングでは長英をも凌いだと言われる。シーボルト事件を切り抜けた後、大坂心斎橋で開業したが次第に精神を病み帰郷。天保十年没。
※ 兄の泰安もシーボルトに学んだ。弟と違い快活な性格で、長英と一緒に患者の奥さんをナンパしたりしていた。
十三250十四16-19,40-41,62-63,156-157,162十五272十七9,48,257十八35,122十九227
幕末五208二十五100
A・呉秀三「シーボルト先生3」(1968.平凡社東洋文庫)※精神病の手記が一部収録・井上義己「広瀬淡窓」(1987.吉川弘文館人物叢書)
高野長英/美馬順三/広瀬淡窓

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