たかはしよしとき高橋至時
※号は東岡または梅軒。大坂時代の本姓は「高階」と書いたらしい。
明和元年生まれ、大坂玉造組同心。麻田剛立に天文学を学び、才能をあらわす。 だがしがない同心の暮らしは貧しく苦学するのだった。
高橋家の庭には立派な柿の木があって家計の助けになっていた。しかし近所の悪ガキどもがしょっちゅう泥坊に来るので日夜防衛戦にあけくれていた。 ある日お勤めからかえってくると、柿の木がバッサリ切り倒されていた。
至時「木を伐ったのは誰だ!」
奥さん「それは私です。くだらない事に時間を浪費せず 学問を極めてくださいまし」
妻の真心に感激した至時はそれから勉強に専心したのであった。…いい話ではあるが、その後家計のやりくりはどうしたのだろう。 間重富にでもタカったのだろうか?
なぜ高橋はそうまで天文学に熱中したのであろうか。 「他のことでは、お上のおっしゃることはすべて御無理ごもっともと頭を下げていなければならぬ、お上のなさることに異を唱えては首が飛びかねない。ところが天体の運行については、 『当てた者が勝ち』。間重富や伊能忠敬などの裕福な町人や豪農、また高橋至時のような下級武士が星学を志したのは、この『当てた者が勝ち。当てた者はお上より上』 というところに惹かれたのであろう」(井上ひさし説)
寛政七年に江戸に召しだされ、間重富とともに天文方に入って改暦を主導し寛政十年より施行された。しかし褒美は金三枚。 幕府はケチだ。
弟子の伊能忠敬が江戸南北の緯度差で地球の大きさを計算しようとしていたので「そんな短距離で正確な数字はでないよ」 とたしなめたら蝦夷地まで行っちゃった。これが伊能図の出発点である。
西洋天文学をさらに究めようとした至時は、師匠が読めなかったオランダ語にも手を出した。 (実は前野良沢がちょくちょく訪れていたらしい)超難しいラランデの暦書を翻訳するので寿命を縮め、寛政十(文化元)年没。名門渋川家に養子で入っていた次男の景佑が残りを仕上げて、 天保十三年に至って国産太陰暦を完成した。
十二115,120-126,154,158,219-220十三59十四50
A・中村士「江戸の天文学者星空を翔ける」(2008.評論社)・渡辺一郎「伊能忠敬測量隊」(2003.小学館)・森銑三「新編おらんだ正月」(2003.岩波文庫)・ 井上ひさし「四千万歩の男・忠敬の生き方」(2000.講談社)・「日本思想大系・洋学下」「同・近世科学思想下」(1976.岩波書店)
麻田剛立/伊能忠敬/高橋景保/間重富/ 前野良沢

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