たぬまおきとも田沼意知
田沼山城守
田沼意次の子。寛延二年生まれ、部屋住みのまま奏者番、ついで若年寄就任。親子で幕閣に入ったのは前代未聞で、世の非難を浴びた。
具体的に彼の人物・能力・政策がどんなものだったのか、史料はほとんどない。ただ相良史料館には「八幡宮」の書が残されていて、見るとなかなかの風格だった。
三月二十四日、佐野政言に斬られる。四月二日死去と記録されるが実際は二十六日に死んでいたらしい。葬列には石を投げられ、蝦夷地を託した工藤平助にまで「これで世の中明るくなるだろう」と言われる始末。死に損もいいところだ。
六46,207-211,272,287七79-87,93,98-100,134-136,228,277八5-30,35-38,43-47,199,215九127十54十三55十五130十七79
幕末一12,92七121
A・C・藤田覚「田沼意次」(2008.ミネルヴァ日本評伝選)
田沼意次/平賀源内/田沼意明/ 田沼意正/佐野善左衛門/チチング

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