たぬまおきまさ田沼意正
水野忠徳
宝暦九年生まれ、田沼意次の四男。改名して沼津水野家の養子になっていたが、父の失脚と共に縁を切られた(記録の上ではそれより前のことになっている)。 しかしこれで人生が終わったわけではない。
彼を追い出した水野家が代わりに養子に入れた忠成は家斉の寵臣となり、化成時代には「誤解された田沼像」そのままの 金権政治で勢威を振るったのだが、意正(名を戻して田沼家当主になっていた)には負い目を感じていた。忠成に引き立てられて意正は若年寄まで出世、そして懐かしの相良に 復帰できたのであった。
天保七年没。
九118-120,201
B・C・藤田覚「田沼意次」(2009.ミネルヴァ日本評伝選)
田沼意次/水野忠友/田沼意知/田沼意明

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