あおきこんよう青木敦書
通称は文蔵。号の由来は父の故郷が「昆陽野村」だからとも、自分の出生地が「日比」谷の「南」だからだともいう。
元禄十一年、日本橋の 魚問屋の子に生まれる。後に門人の工藤平助に、なんで商人をやめて学者になったかと聞かれて、「魚は夏場すぐに腐って損をする。儲けたら儲けたで芝居の幕を寄付しろとか相撲取りの マワシを買ってやれとか面倒なのでイヤになった」などと語っている。京都に行って伊藤東涯(実用を重んじた古義学者)に儒学を学んだが、実家が火事で焼けたので江戸に 戻り、八丁堀に塾を開いて食っていく事にした。地主の加藤枝直(大岡越前の部下)がまたひとかどの学者であり、江戸に来ていた賀茂真淵も下宿させていて三人は切磋琢磨 していた。
昆陽は学者といっても経世済民に関心が強かった。「蕃薯考」でサツマイモの有用性を説き、越前経由で吉宗に認められた。
御書物御用達をやってい た時、野呂元丈と共にオランダ語の研究を命じられる。「和蘭文字略考」はオランダ語を学び始めたころの著作で、さらに長崎通詞の協力でオランダの文法書を翻訳した 「和蘭文訳」を宝暦八年に完成させている。良沢が入門した時は最低1206語と基本的文法は知っていたようだ。
書物奉行にまで出世して明和六年没。
四112-113七6十二160-161
A・金子務「江戸人物科学史」(2005.中公新書)・「日本思想大系・洋学上」(1976.岩波書店)・片桐一男「それでも江戸は鎖国だったのか」 (2008.吉川弘文館)・「叢書江戸文庫30・只野真葛集」(1994.国書刊行会)
徳川吉宗/前野良沢/西善三郎/吉雄幸左衛門 /野呂元丈/工藤平助

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