みずのただとも水野忠友
享保十六年生まれ、通称は卯之助・惣兵衛。「九十九水野に百大久保」といわれるくらいで、徳川家康の外戚に連なる水野さんはいっぱいいるのだが、 忠友の場合は家康の母の末弟の家系である。忠邦などとの関係をまとめてみるとコンナ感じ。
水野氏略系図
先々代の忠恒までは信州松本八万石の大名だったのだが、江戸城松の廊下で何か怨霊にでも憑りつかれたのか、通りがかりの長府藩主にいきなり斬りつけた。外様ならば即日切腹だったが、 家柄もあって旗本七千石に落としてようやく存続した。どうにかして大名に復帰したい忠友が徳川家治の小姓を勤めていた時、同役の田沼意次と知り合ったのである。
成り上がり田沼としても名門に味方が欲しかったので、四男を養子に出して田沼政権の一員に加わってもらった。明和五年若年寄。安永六年側用人。天明五年老中。最終的に出羽守・ 三万石の大名に返り咲き、沼津に城を建てたのだった。それでも田沼が失脚するや、すぐに養子忠徳を離縁した。あっちから見ればとんだ忘恩だが、水野としては 「利用したのはお互い様だろ」と言いたいところか。
まあ、子供の教育に悪いというほどの奸物でもないと評価されてたのか、定信失脚ののち世子家慶付きの西丸老中に復帰した。享和二年に引退、同年死去。
※忠徳(のちに田沼意正)を追い出した後、新しく岡野家から養子に迎えた忠成はまた別種の人物で、将軍家斉に取り入って化政時代の筆頭老中となり、田沼もびっくりの金権政治を行い、 幕府を決定的に腐敗させてしまった。徳川幕府が滅んだのはだいたい沼津藩のせいといえよう。
九118,147,166,195
C・福留真紀「名門水野家の復活」(2018.新潮新書)・「新編物語藩史第五巻」(1975.新人物往来社)・森銑三「史伝閑歩」(1985.中央公論社)
徳川家斉/田沼意次/田沼意正/松平定信/ 徳川家慶

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