― | 蜂須賀治昭 |
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子供向け学習マンガの太閤記だと話はだいたい天下統一で終わっててさ、そのあと関ヶ原の巻を読んでスゴイ断絶を感じませんでしたかね?
なんで敵だった毛利とか上杉とかが大老なのか?いちばん腹心だったはずの蜂須賀とか竹中とかはどこ行ったの?でも最近の研究だと、小六や半兵衛はもとからそれなりの豪族で、
秀吉の家来じゃなくて方面軍に信長が加勢させた「与力」なのだという。だとすれば豊臣家に叛逆するも何もないが、二代目が三成と争ったから東軍ということになり、阿波藩を安堵され江戸時代に続いた。
でもってベニョブスキーに押しかけられた治昭は宝暦七年生まれ、明和六年に阿波藩十一代藩主となった。先代の重喜はすごいやり手で、下級から人材を抜擢したり藍の専売制を強化したり、 藩の財政改革に励んでいた。しかしやりすぎて家老から百姓まで反乱が続出し、幕府ににらまれて隠居に追い込まれた(これが吉川英治『鳴門秘帖』の元ネタ)。 治昭は文系のおとなしい奴と思われてたから新藩主に推されたのだろうが、基本的に改革路線は続行し、佐藤信淵を招いて砲術を指導させたりした。どうも大谷屋敷に隠居していた重喜が院政をやってたようだ。 阿波踊りや人形浄瑠璃や大谷焼など、阿波名物の多くは重喜・治昭時代に確立されたものである。さらに治昭は教育にも力を入れ、美馬順三や高良斎などの人材を輩出した。 東洲斎写楽の正体が能楽師斎藤十郎兵衛であれば、写楽の主君でもあったことになる。このように内政で忙しかったのなら、外人さんの相手してられなかったのも無理はないかもしれぬ。 文化十年に引退、翌年没。 ※正室は大老井伊直幸の娘である。 | |
五23-45 | |
B・C・和田裕弘「織田信長の家臣団」(2017.中公新書)・「徳島県の歴史散歩」(2009.山川出版社)・「新編物語藩史第十巻」(1976.新人物往来社) | |
豊臣秀吉/織田信長/佐藤信淵/ベニョブスキー/ 美馬順三/高良斎/井伊直幸 |