はなおかせいしゅう華岡震
「福翁自伝」では妙に華岡流がライバル視されていて、その影響で「陽だまりの樹」なんかでも悪役にされているのだが、これは不審である。 もともと華岡流は内科でも外科でもない「瘍科(デモノハレモノの治療)」であり、蘭方と対立するものではないのだ。
華岡家の祖先は楠木正成の一族だそうで (高山彦九郎と会っていれば友達になれたはずだ)、南朝が負けたからまず富田林市の華岡に落ち延び、領主の畠山氏も没落したためさらに紀州・麻生津(アウズ→アオズ→青洲) へ引っ越した。自然豊かな紀州の山中でそこらに薬草がいっぱい生えているから、寛永ころから医者をやるようになった。代々の通称は随賢という。
二代随賢直道は、 内科に加えて大坂でカスバル流南蛮外科を学んでいた(この岩永という先生が「岩永麻沸湯」という催眠・鎮痛剤を使っていた。ほかにも当時、整骨の痛みを和らげるとかの目的で 原始的な麻薬があちこちで使われていたみたいである)。村一番の金持ちの箱入り娘が病気になったので、「もし病気を治せたら俺と結婚してくれ!婚約してくれなきゃ治療しないぞ!」 と迫り、がんばって病気を治してついに嫁さんをゲットした。映画で高峰秀子が演じていたおっかない姑である。
青洲(幼名は雲平)は宝暦十年十月二十三日に生まれた。 その日は大嵐で天地が鳴動するほどだったが、雲平がおなかから出て来るとピタリと止んだ。お釈迦様なみである。成長して京都に遊学し、吉益東洞の子・南涯に古医方を (蒲生君平とかの甥弟子にあたるわけだ)、大和見立に南蛮外科を学んだ。西洋で乳癌手術が問題になっていることを知り、人がやっていない事を成し遂げようと決意した。 またこのころ頼山陽などとも友達になっている。
帰郷してすぐくらいに妹背加恵と結婚した。映画で若尾文子が演じていたかわいそうな奥さんである。 家を継いで名手村・平山の「春林軒」病院を経営しつつ、家族を実験台に麻酔術の研究を進めた。
青洲が藍屋利兵衛の母を手術し乳癌を切除したのは文化元年 (1804)十月十三日のことだが、これが「世界初の全身麻酔手術」なのかは誰にも証明できない。前記の通り原始的な睡眠薬や鎮痛剤なら存在してたし、 記録に残らないところで朝鮮人とか琉球人とかが先にやってたかも知れない。青洲先生が偉いのは「記録に残した」ところである。彼は手術に際し、 こういう症状に対してこういう治療をしてこういう結果になった、という詳細なカルテ・スケッチを作成していて、だからこそ後世で小説とか映画とかに出来たわけだ。
華岡流にとっては、麻酔とはあくまで大手術を可能にするための技術である。状況によっては麻酔なしで手術することもあるし、手術なしで内服薬で散らすこともある。 内科も外科も漢方も蘭方も医術は一つ、容態を良く観察し患者にとって何が一番良いかを見極める事が先決というのがポリシーであった。
とにかく神のごとき名医という評判が全国に広まり、病人や入門希望者は毎日病院に押し寄せ、それら相手の商売で近隣の十数軒が食っていけた。 杉田玄白や大槻玄沢も江戸から賞賛の手紙を出した。紀州藩では典医に取り立てることにしたが、青洲は治療と研究に専念したいので、和歌山出張所には弟子を送って、 自分は基本的に死ぬまで山里で診療を続けたのだった。故郷を愛する彼は百姓のために溜池を作ったりもして村人に感謝されている。天保六年没。
門下生は水戸の本間玄調をはじめ千人以上。橋本左内も本当は華岡流の家柄で、華岡家門人帖によると嘉永四年七月二十四日に入門している。適塾と掛け持ちしてたのかな。
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大森文庫出版編集委員会「華岡流医術の世界」(2008.ワン・ライン)・呉秀三「華岡青洲先生及其外科」(大12.復1994.大空社)
蒲生君平/頼山陽/杉田玄白/大槻玄沢/ 橋本左内

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