かめだぼうさい亀田長興
宝暦二年、浅草生まれ。親がベッコウ問屋に勤めてたので「亀田」姓なのである。儒学を学び、諸家の良いとこ取りで独自の説を立てる(折衷学派)。
田沼時代の自由な風潮では流行したが、やがて寛政の改革が始まった。鵬斎は松平定信の異学の禁を批判して「異学の五鬼」に数えられた。 ※残り四鬼は塚田大峰・市川鶴鳴・豊島豊州・山本北山である(異説あり)。
弟子はみんな逃げてしまったので塾をたたみ、江戸を離れ諸国を放浪し、 良寛などと交流する。ほとぼりがさめると江戸に戻り社交界の中心に位置した。
江戸市民には学問よりも、大酒のみとミミズがくねるような書体(ほめてるのだよ) で親しまれていた。店のツケがたまると看板を書いてやり、それで売り上げを倍増させたりするのだった。長英も「拡充居」の額をもらい自宅に飾っていた。
向島に百花園がオープンしたのは文化年間のことで、当初は鵬斎や大田南畝などに1エリアごと任せてプロデュースしてもらった。今は原型を留めていないが、 この先生にはそういう才能もあったのだ。
文政九年に没。弟子に東条一堂・藤田東湖などがいる。また息子の弟子の孫が「山月記」の中島敦である。
十三154-156十四28
A・「日本の思想家25井上金峨・亀田鵬斎」(1984.明徳出版社)・渥美国泰「亀田鵬斎と江戸化政期の文人たち」(1995.芸術新聞社) ・種村季弘「江戸東京《奇想》徘徊記」(2006.朝日文庫)・勝又浩「中島敦の遍歴」(2004.筑摩書房)
高野長英/浅草の漢方医/大田蜀山人/ 東條一堂/藤田東湖

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