やまわきとうよう山脇尚徳
宝永二年、丹波の清水家に生まれる。父の師だった京都医学界の名門・山脇玄脩(野呂元丈の師でもある)の養子となり、法眼に任官。中御門天皇の侍医に加えられ、 また後藤艮山の古医方(観念論を排し臨床に立ち戻れという学派)に傾倒、古い中国の医学書を復刻して褒賞を受け、中国に逆輸入までされた。
普通に栄達を極めて いた東洋が、なぜ腑分けなどに手を出したのかがよくわからない。マクロ的には吉宗時代の文芸復興ムードによるものとされるが、それだけだろうか。吉村昭は彼が先妻と 死別し後妻と離別した体験を一因としている。筆者が邪推するに、あるいは野心的な弟子に名前を貸したのかもしれない。またあるいは、実は腑分けなど方々でやっていて、 有名人がやったから有名になったという事かもしれない。
最初カワウソの解剖からはじめ、弟子の小杉玄適たちが京都所司代・酒井忠用に仕えていたツテで刑死体の 解剖許可をもらい、宝暦四年に腑分けを実施し「蔵志」にまとめた。あのへたくそなスケッチは門人によるもので、東洋自身の書いた観察文はわりと正確だった。西洋の解剖書を持っていてそれを参照したらしい。 使った死体はあとでスタッフがおいしくいただきました、じゃなくてお寺で丁重に埋葬してあげたそうだ。
東洋はその後も何度か腑分けを実施し、 各地で追随するものが増えた。麻田剛立もその一人である。宝暦十二年没。
四125-127
A・吉村昭「新装版日本医家伝」(2002.講談社文庫)・富士川游「日本医学史綱要1」(1974.平凡社東洋文庫)
野呂元丈/杉田玄白/前野良沢/麻田剛立

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