なかがわごろうじ五郎治
南部藩の足軽で、蝦夷地警備に駆り出され、択捉島の内保場所で帳付けをしていた。アイヌ娘と結婚していて多少のアイヌ語・ロシア語を 習い覚えたようだ。
文化四年ロシア船が来襲して捕らえられた。五郎治は武士なら待遇が良いだろうと思って中川良右衛門を名乗った。改宗を拒否してヤクーツクで 頑張っているうちに種痘のことを知る。
文化九年、取引材料として摂州漂民六名とともにディアナ号に乗せられ帰国。ロシアでの身分詐称が問題になったが、 まあ無事に帰ったのはめでたいということで許された。
その後蝦夷地に住み着き種痘を行う。牛痘苗をどうやって入手したかは不明だが、吉村昭「北天の星」 では偶然牛痘にかかった牛を発見した事になっている。もしくは、安芸の漂流民でガラスに封じた苗を持ち帰った者の記録もある(これは安芸藩に無視されて宝の持ち腐れ) ので、そんなルートで他人から入手したのかもしれない。
彼は種痘だけが生活の糧だったので、なかなか他の医者に苗を分け与えようとしなかった。嘉永元年に死ぬと それっきり、ほとんど種痘術が普及する事はなかった。
十二254,262-265十三270
A・木崎良平「漂流民とロシア」(1991.岩波新書)
レザノフ/高田屋嘉兵衛/バシリー・ミハイロヴィッチ・ゴローニン/リカルド

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