バシリー・ミハイロヴィッチ・ゴローニン
1776年、リャザンの地主の家に生まれた。幼くして両親を亡くしたので海軍に預けられ、以後その一生をささげることになる。 海軍兵学校で教わった先生がニコライ・クルガーノフという有名な啓蒙家で、彼は深い知識と文章力を身に付けることができた。
1807年に世界周航を命じられ、その途中ケープタウンで英軍に捕まった。1年半後に脱出したが、そのあと日本に立ち寄ったらまた捕まった。二年の間、 脱走を試みて失敗したり部下が錯乱したり通詞・馬場佐十郎たちにロシア語を教えたり間宮林蔵が知識をひけらかしつつ鍋を作ってふるまったりと数々の苦難にみまわれたが、 それはそれとして日本人について公平な評価をあたえている。
「全体として一国民を他国民と比較すれば、日本人は天下を通じて最も教育の進んだ国民である」
「日本政府としては、国民が自国の文明だけで満足し、自国民の頭で発明したものばかりを使用することを求め、他国民の考案を採り入れることを禁止して、外交の学問、 芸術とともに異国の風俗が入りこんで来ないようにしている。日本に隣接した東洋諸国では、天啓が日本の立法家たちにこんな考えを植えつけたことを感謝して、 日本人がその政策を捨てて西洋式の政策を採用するきっかけを与えないように努力するべきである」
「彼らが自発的に何かやろうと思い立ったら、どんな極端なことでもやれるのである。 たとえば隣国人の襲撃が頻繁にくり返されると、むろん日本人は少数の闖入者のため多数の国民が不安に陥るのを防ぐ方法を講ずるであろう。それが洋式の手本に従って軍艦を建造するきっかけとなり、 それらの軍艦が集って海軍となり、やがてはおそらくこの方策の成功によって人類の絶滅に役立つ他のヨーロッパ式の文明的方法をも採用することとなり、 遂にはわが国のピョートルほどの天才がいなくても、情勢のおもむくところ、あらゆるヨーロッパの発明が日本で使用されるに到るであろう」
この著書「日本幽囚記」は早くも文政八年に幕府の邦訳する所となったが、そのあと実際の開国政策に影響をあたえたのだろうか?
1813年に高田屋嘉兵衛と交換でやっと解放。帰国後もアラスカ調査などよく働いて主計総監・中将まで昇進し、1831年にコレラで死んだ。息子のアレクサンドルは後に文部大臣まで出世し教育改革に貢献している。
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F・ゴロヴニン「日本幽囚記」全3巻(1943-1946.岩波文庫)・中村喜和「おろしゃ盆踊唄考」(1990.現代企画室)・「ロシアの木霊」(2006.風行社)・ 洞富雄「間宮林蔵新装版」(1986.吉川弘文館人物叢書)
間宮林蔵/リカルド/高田屋嘉兵衛

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