もものいしゅんぞう | ― |
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護持院が原の仇討で千葉周作と斉藤弥九郎のついでに顔を出してた人。鏡新明智流桃井道場の主は代々「春蔵」を称したが、当事典の対象になるのは三代目までである。
諸国を巡り富田流・一刀流・柳生新陰流・堀内流などを学んでいた初代桃井直由が「鏡心明智流」を創始し日本橋に道場を開いたのは安永年代で、この時の宣言が変わっている。 「勝てないけど負けない剣術を思いつきました」 「貧乏人や下手な人でも親切に指導します」 武道をなめとんのかと怒った剣客たちが道場破りに押し寄せてコテンパンにやられたが、 これでかえって「こんな道場なら俺でも師範代くらいになれるかもしれない」とヤクザや下級武士が続々入門し、大繁盛した。まさに負けるが勝ちである。 二代目の直一は京橋の浅蜊河岸に大きな道場を新築し、ここが土佐藩江戸屋敷の近所だったため、武市半平太など土佐郷士たちが多く籍を置くことになった(岡田以蔵なんかはほぼ自己流だろうけど)。 三代目の直雄、ワイド版18巻に顔を見せたのは年代的にたぶんこの人だが、実はこのとき道場は経営難だった。どうしたものかと困っているところに、 長女の夫の紹介で沼津藩士の次男坊が入門してきた。こいつが凄い天才児の上に美少年で、喜んだ直雄は婿養子として跡目を譲り、嘉永五年に没した。 この四代目桃井春蔵直正こそが華麗なフォームで「位の桃井」と賞され、鏡新明智流「士学館」を江戸三大道場の一角に押し上げた人なのであるが、 彼については第二期の範疇である。 | |
十五12十八29-30,175-187 幕末三156 | |
杉田幸三「決定版日本剣客事典」(2008.河出文庫)・戸部新十郎「剣は語る」(1998.青春出版社) | |
千葉周作/井上伝十郎/勝小吉/本庄茂平次 |