みずのただあつ水野忠篤
水野美濃
「九十九水野に百大久保」といわれるくらいで、徳川家康の外戚に連なる水野さんはいっぱいいるのだが、忠篤の場合は家康の母の弟の家系である。 忠邦などとの関係をまとめてみるとコンナ感じ。
水野氏略系図
紀州藩付家老の分家で千五百石の家に生まれた。たかが千五百石の分際でなぜあんなにイバっていたのか?十一代将軍家斉は何十人もの側室・妾を囲い子作りに耽っていたが、 当然その女たちの実家や周旋人は特権階級に成り上がった。忠篤の妹も側室(お歌の方)になり何人か子を産んだので、兄はその余禄で御側衆となり八千石に加増、 家慶時代になっても権力をふるっていたのだった。しかしもちろん大御所が死ねば地位は危うくなった。
ある夜、水野美濃守の家来と名乗る者が大井村教光院にやって来て、 水野忠邦の呪詛を依頼した。しばらくして水野美濃は忠邦呪詛の容疑で訴えられた。賢明なる読者はすでにお分かりと思うが、 美濃守家来を名乗っていたのは忠邦・鳥居の意向を受けた本庄茂平次である。
忠篤は御役御免・加増分の領地を没収され、さらに信州諏訪藩に流された。そこで死んだはずだが没年不明。
十六167-178,187,213
C・北島正元「水野忠邦」(1969.吉川弘文館人物叢書)・松岡英夫「鳥居耀蔵」(1991.中公新書)
徳川家斉/水野忠邦/本庄茂平次/ 徳川家康/水野十郎左衛門/水野忠徳

目次へ戻る