― | 毛利吉政? |
---|---|
こっそりと城をぬけだし大坂城へ向った侍 | |
正確には長曾我部の家臣ではなく、一緒に南宮山に陣取っていたら吉川に通せんぼされた小倉六万石の武将。軍記本などでの通称は「毛利豊前守勝永」だが、
本名は吉政とか吉永とかいうらしい。 父の吉成はもともと美濃あたりで森姓を名乗っていて、木下藤吉郎が一番最初に持った部下の一人という。地味ながら着実に功績をあげ、 九州方面の目付として小倉城を預かったとき、箔をつけるために長州の毛利さんに苗字を借りたのだそうな。 勝永は天正六年生まれ、朝鮮出兵の蔚山救援戦でデビューを飾り、 関ヶ原前哨戦の伏見城攻めでも大手柄を立てたが、同じ毛利だからって南宮山方面に回されたのが運の尽きだった。戦うことなく改易されたものの、親の代から仲が良かった山内家が父子 ・家臣ともども土佐に引き取ってくれ、流人とは思えぬ好待遇で暮らしていた。ここらがゲイ伝説のもとになっている。 説話によると勝永は山内忠義が江戸にいたのをいいことに、 「衆道の約束で戦の時は必ず駆けつけると誓いました。江戸に行かせてください」と城代をだまし、土佐を出国するとそのまま大坂に駆け込んだ。 この話だけだと軟弱そうなイメージだけど、 夏の陣最終決戦における勝永の武功は「惜しいかな、後世、真田を云って毛利を云わず」と一部に絶賛されるものだった。真っ先に仕掛けてきた本多忠朝をあっという間に返り討ちにし、 続いて小笠原親子を血祭りにあげ、その他徳川軍の前衛をあらかた撃破し、とりわけ真田幸村が一番戦いたくなかった甥っ子たちを排除してくれた。おかげで幸村も心置きなく家康に突撃できたのだった。 その真田隊が玉砕した後に生き残りをまとめて大坂城に帰還すると、秀頼母子の介錯を務めてのち後を追ったという。 | |
二293 | |
A・今福匡「真田より活躍した男・毛利勝永」(2016.宮帯出版社) | |
長曾我部盛親/真田幸村/毛利秀元/ 豊臣秀吉/淀君/山内一豊/後藤又兵衛 |