ごとうまたべえ後藤基次
幕末長州藩の来島又兵衛は「長州の後藤又兵衛」と呼ばれていた。家康に刃向かった賊将がそんなにポピュラーだったのかといえば、実はポピュラーだった。 徳川幕府の出版規制は筆写本にはほとんど及ばなかったので、豊臣方を英雄視するような軍記物も貸本屋ルートで簡単に読めたのだ。
生年未詳、 父は三木城の別所長治に仕えていたとされる。黒田官兵衛の部下となり、やがて数々の軍功を挙げ黒田家の重臣になったのだが、そのへんは平田弘史先生の「黒田・三十六計」 で詳しく描かれることだろう。
後藤は大隈城一万六千石の領主になった(名槍「日本号」をもらったのは母利太兵衛という人だが、講談ではこれまで又兵衛の物になっている)。 しかし前線指揮官としては一流だが傲岸不遜な彼は二代目長政とソリが合わなくなり、関ヶ原のあと主家を退転した。細川や池田の厄介になった後、大坂に六千の兵を連れ入城。 寄せ集め部隊をたちまち手足のごとく操って見せた。
古書にいわく、家康は豊臣軍の顔ぶれを聞いて「大坂には後藤と御宿勘兵衛(誰それ)以外に人はいない」と評し、 密使を送って播州一国の条件で引き抜きをかけた。又兵衛の答えて、「大御所様にそこまで見込まれるとは光栄の至りでござる。この御恩返しに、 豊臣の将として真っ先に討ち死にして御覧にいれましょう。拙者が死ねば大坂はもうおしまいですからな」こんなこと言いたがるから浪人するのだ。
夏の陣では諸将と共に殴り込みを計画したが、真田なんとかいうバカが濃霧で迷子になり、道明寺で孤立して奮戦の末に戦死。生前に言った通り、翌日には豊臣家が滅亡した。
※堺の南宗寺には「徳川家康墓」なるものがあって、家康は夏の陣で又兵衛の槍に突き殺されていたのだと言い伝えられている。
※※手塚治虫が昭和29年に 「おもしろブック」で発表した短編に「後藤又兵衛」というのがあって、なかなかの埋もれた佳作です。杉浦茂も昭和32-33年に同誌で同題の作品を描いているがこちらは未見。 長野規編集長がよほど又兵衛好きだったのか。
二295-298三7,13
幕末十七81
高橋圭一「大坂城の男たち」(2011.岩波書店)・綿谷雪「実録後藤又兵衛」(1984.中公文庫)・「杉浦茂マンガ館5」(1996.筑摩書房) ・「手塚治虫漫画全集41・弁慶」(1978.講談社)
徳川家康/真田幸村/岩見重太郎と謎の怪物 /豊臣秀頼/淀君

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