とくがわひでただ
徳川幕府二代将軍。三男坊だけど長男は切腹し次男は庶子だったので気がつけば世子になっていた。
関ヶ原の時は中仙道を進み、こちらが 本隊だったという説もある。真田などを制圧しつつ進む方針は小山評定の時点で決まっていた事だったが(放置していたら江戸に攻め込みかねないし)、美濃戦線の急展開 で決戦が予定より早まったので、結果的に「真田にしてやられた」形になっちゃった。関ヶ原で手兵を使えなかった家康は豊臣系諸大名に恩賞を与えざるを得なくなり、 江戸時代が地方分権スタイルになった要因ともいわれる。
将軍職を継いでからは別人のように働いて幕府の基礎を築いた。
一52二116-139,164-190,195-201,211-221,229-233,255-268,273-277,284,298三4,7,18-37,42-54,64,66,84-104,188五167七148九26十三206十六260十八218
幕末一70-71,76十76十三206二十八102
A・笠谷和比古「関ヶ原合戦と大坂の陣」(2007.吉川弘文館)
徳川家康/真田昌幸/真田幸村/ 榊原康政/徳川達子/徳川家光/千姫/神尾静/ 土井利勝/神尾某(英加)/保科正之

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