うえすぎはるのり上杉治憲
米沢藩九代藩主。名は家治から一字もらい、また鷹山と号す。
ちっこい高鍋藩秋月家から養子に来て、門閥の家老どもと闘い、 先代が領地返上を願い出たほどの窮乏から上杉家を立ち直らせた明君という話は、無印八巻で少し出た後、童門冬二の本で有名になった。ここでは「風雲児たち」 のあのへんでは何をやっていたかを書きます。
三巻で薩摩藩が治水工事に行く少し前、治憲は松平不昧や一橋治済と同じ宝暦元年に生まれた。
前野良沢がオランダ語の勉強を始めたころの明和四年、治憲は家督を継いだ。
五巻136ページの大火で上杉江戸屋敷も燃えてしまったので、米沢藩士みんなで山へ材木を切り出しに行った。 そういうことで挙国一致の改革意識を培っていったのである。
七巻で神昌丸を難破させた天変地異は米沢の第一次改革も難破させてしまい、 奉行竹俣当綱が責任とってクビになった。
十一巻で徳内が蝦夷地に復帰したころ、隠居していた鷹山も改革に再登板した。
十二巻で富山元十郎が得撫島のロシア人を退去させたころ、「かてもの」がようやく本にまとまり、のちの天保飢饉では大いに役に立った。
松前藩が蝦夷地に復帰して喜んでいたころ、鷹山はひっそりと世を去った(文化五年)。
※藩に招いた儒者・細井平州は高山彦九郎の師でもあり、鷹山は高山が米沢に来た時イワナを贈った。
八91-94,105
B・小関悠一郎「人をあるく・上杉鷹山と米沢」(2016.吉川弘文館)・小関悠一郎「<明君>の近世」(2012.吉川弘文館)
松平定信/高山彦九郎/徳川家治

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