いくたよろず | 生田圀秀 |
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時に天保二年十月、公用で上州へ旅していた渡辺崋山は道中ふとタバコを吸いたくなり、先を歩いていた人に火を借りようと声をかけた。
見れば頭は総髪、眉うすく鼻筋通り面長く色黒く、なんだか大物っぽいモノノフである。興味を持ち、そのまま半日ばかりの道を歩きつつ話し込んだ。
身の上を聞くに、崋山が若さに任せて脱藩していたらこうなっていたかもしれないと思わせるところがあった。 万は上州館林藩士の子として享和元年に生まれた。館林藩も田原藩に負けず劣らず貧乏で、名目は百三十石四人扶持だが手取りは二十七石三斗。 生活の足しに家庭菜園を作ればそれにまで年貢をかけられる始末。遊んでる金も気分でもないので学問に没頭した。藩校の崎門学から陽明学へ、 さらに国学へと心が移り、江戸で平田篤胤に入門して頭角をあらわし「宣長のあとは篤胤、篤胤のあとは生田万なり」と言われた。 いよいよ困窮する藩を見かねて、文政十一年に『岩にむす苔』と題する建白書を出した。平田学派は名主とか庄屋の身分が多くて百姓一揆などには冷淡なのだが、 万の場合は貧農への強い同情が感じられる。あと山国なのに『海国兵談』を読めとか言っている。こんな田舎の貧乏人でさえ必読書になってたのだね。 もちろん意見ははねつけられ、館林藩を追放されてしまった。そのあと平田の塾頭をやったり、帰郷して寺子屋で教えていたころに渡辺崋山と出会ったのだった。 崋山は思想は違えど生き方に共感できるものを感じたようだ。尚歯会に誘っていたら新しい人生が開けたかもしれないが、けっきょく二度と会うことはなかった。 同門の人に招かれて越後柏崎の塾で教えることになる。大飢饉に際して代官所に救民を訴えたが聴かれず、天保八年六月一日に決起、敗れて自刃した。 ※。 | |
十四278 | |
A・「日本思想大系51国学運動の思想」(1971.岩波書店)・芳賀徹「日本の旅人13渡辺崋山・やさしい旅びと」(1974.淡交社) | |
大塩平八郎/渡辺崋山/林子平 |