やぎゅうしゅぜん柳生久通
十兵衛や烈堂の子孫ではない。元は村田という苗字のひいじいさんが柳生新陰流の門人で、才能を認められ姓をもらい幕臣に推薦されたのだ。 久通は延享二年生まれ、家治の息子の剣術相手などを経て目付になっていた。
剣の家柄でありながら、佐野事件で70のじいさんに遅れを取ったのはいかにも醜態であろう。 ところが処罰されるどころか町奉行に、さらには勘定奉行上席に出世した。実はあの場にいた全員、一橋に買収されていたのでは?と疑われる所以である。
彼の仕事ぶりは綿密というか回転が遅く、毎日残業で部下からは不満タラタラであった。日光東照宮修理やワイド版11巻での京都御所再建など建築業が適職だった。
文政十一年、在職中に没。
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C・H・山本博文「武士の評判記」(2011.新人物往来社)
佐野善左衛門/田沼意知/一橋治斉/松平定信/ 松平対馬守

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