てづかいちろうざえもん手塚正盈
江戸の火消与力。林子平の妹婿で「海国兵談」の世話人のひとり。なぜ江戸の消防士が仙台藩士の妹と結婚したのかよくわからない。
彼は手塚治虫の先祖なのだろうか?源平合戦のころ信州諏訪の金刺氏のなかで、斉藤実盛を討ち取った手塚太郎光盛という名将がいた。歌舞伎にも出て来る著名人なので、 その手塚太郎の末裔を名乗る家は日本中にたくさんいる。
林家系図では諱は「正盈」とある。諱というのは信秀―信長―信忠みたく家族で一字ずつ共有している事が多いが、 wikipediaだと手塚良仙親子の実名は「光照」「光亨」だ(出典不明)。この筋では関係を証明できない。
市郎左衛門は少なくとも人名事典にのるような業績を残してはいない。 ただひとつ「家系姓氏大辞典」には、「林子平の妹は飯田町火消与力手塚平八郎の母なり」とある。この場合の火消とは時代劇に出てくる町火消ではなく、 何名かの旗本にそれぞれ弓・鉄砲方の与力六騎と同心三十人を付けて、主に武家地を守らせた「定火消」である。その中で飯田橋・牛込・神楽坂方面を担当していたチームに 手塚さんが所属していたのだ。
もともと武鑑というのは大名だけでなく幕府に何らかの地位を有する人物なら全て網羅した紳士録だったらしい。須原屋茂兵衛版のだと、 巻の三・30〜40丁目くらいに「定火消御役」の項があり、そこには配下の与力衆までもが付記されている。その欄に慶応年間までずっと「手塚だれそれ」 と読める名前が載りつづけていた(私が閲覧できたのはススけた古本を影印・縮刷したものなので判読しづらい)。
話をまとめてみると、 市郎左衛門の家は幕末に至るまで飯田町で火消与力のままだった。小石川の手塚医師は少なくとも嫡流の子孫ではありえない。 ただし何代目かの次男三男が医術を学び独立した可能性は否定しきれない。
※手塚眞監督のブログによると、 手塚太郎以来の家系図が現存しているらしい。それが公開されればもっとはっきりするだろう。
十22
「新編林子平全集第五巻」(1980.第一書房)・太田亮「家系姓氏大辞典・第二巻」(1963.角川書店)・「江戸幕府職官考8」(2011.文化図書)・ 「役職武鑑編年集成」(1996-1998.東洋書林)
林子平/藤塚式部/柿沼寛二郎

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